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充実した人生を歩むためのヒント
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2007年06月20日(Wed)▲ページの先頭へ
健康な心に感謝を

イマヌエル・カントは、
貧しい製鉄打ちの家に生まれました。

病弱な体質で、17歳の頃までは、
毎日「苦しい、苦しい」とわめき散し、
やっと生きているという有様でした。

医者にかかる機会も無く
年に2〜3回、町の巡回医に
やっと診て貰らうという状態でした。

あるとき、村に医者がやってきました。

父親は、カントの持病が治らないとしても、
その苦しさを軽く出来ないだろうかと
医者に相談しました。

医者は、カントの顔をじっと見てから
このように言いました。

「気の毒だな君は。
 しかし、それは体だけのことだよ。
 心はどうにもなっていないよ。
 確かに苦しいだろう。
 しかし、辛い、苦しいと言った所で
 それが治るわけではない。
 どうだい、その辛い、苦しいと言うその口で
 心が丈夫なことを感謝し、
 喜ぶことができないかね。
 心が丈夫なおかげで
 これまで生きてこられたのだからね。
 心を感謝と喜びで満たしてごらん。
 これが、君に与える私の診断だよ。」

今日から、辛い、苦しいと言うことは止めよう。

すると不思議なことに、今までの苦しさに代わって
生きてゆくことの喜びが感じられるようになって来ました。

そして、持病持ちの体と丈夫な心の関係、
心と体とはいったいどちらが自分なのかという
哲学することの始まりとなりました。

医者の一言によって、
カントは世界的な大哲学者となるきっかけを
つかんだのでした。

2007年06月19日(Tue)▲ページの先頭へ
英語に挑戦

一万円札の肖像画として、
あるいは慶應義塾大学の創始者として
よく知られている福沢諭吉。

彼は大阪の緒方洪庵の塾で、
オランダ語の読解に励みました。

そして大いに自信をつけた諭吉は
江戸に出ることを決心しました。

「江戸でオランダ語を教えるのだ!」

そして江戸でオランダ語の大家先生の
実力を試して歩き回りました。

表向きは教えを請うふりをし、
翻訳の厄介な原文を持ち出して、
江戸の学者を困らせて、
ひそかに得意がっていたのです。

ある日、諭吉は横浜見物に出かけましたが、
なんと自慢の鼻をいっぺんに
へし折られてしまったのです。

横浜の外国商人には諭吉のオランダ語が
まったく通じないばかりでなく、
相手の言うことさえ理解できないのです。

店の看板はおろか、チラシさえも読めない。

どこを見渡しても、
諭吉が知っている文字が見当たらないのです。

オランダ語にすべてを賭けて来た諭吉は、
お先真っ暗な気分に落ち込んでしまいました。

しかし翌日には、諭吉はもうすっかり
オランダ語にあきらめをつけていました。

これからは英語の世界なのだ。
世界の大勢は、英語だ。

それからというものは、
初心に戻って発音を習うのなら、
先生は子供でも漂流人でも誰でもかまわない。

あらゆる手づるを使って、
英語の習得に全力を注ぎました。

古いものにいつまでもしがみつかない、
この思いっきりの良さと、すばやい方向転換、
そして蒸気機関車のような行動力が
諭吉の将来を切り開いていったのでした。

2007年06月18日(Mon)▲ページの先頭へ
大幅な賃上げで働く喜びを与える

T型社の成功で、フォード社が目覚しい発展を遂げた頃、
フォードが工場内を見回っていると、
工員同士が大喧嘩をしている光景に出っくわしました。

いい年をした大人が、
なぜつかみ合いの喧嘩をするのだろう。

フォードはわびしい思いにとらわれましたが、
先日の人事担当者からの報告を思い出しました。

ある熟練工の作業能率が急に落ちたので
事情を調べてみたところ、
貧しい家庭生活と関係があるというものでした。

工員たちの生活条件が悪いから、
つかみ合いの喧嘩をしたりするのだ。

一日1ドルや2ドルの賃金で、
人間らしい生活なんかできやしない。

工員たちの協力で得られた利益を
彼らにも平等に分けてやるのが本当だ。

それからフォードは重役会議を開き
工員の賃金を大幅にアップしたいと提案しました。

すると重役たちが難色を示し、
一人が皮肉たっぷりに言った。

「次は日給4ドル74セントになり、
 多分その次は5ドルになって、
 会社は倒産ということになりますかな。」

そこでフォードは切り返しました。

「5ドルか、それはいい。
 では、5ドルに決まった。」

こうして、22歳以上の工員の日給の最低が5ドル、
22歳以下でも扶養家族がある者は同額ときめ、
勤務時間をそれまでの10時間2交代制を
8時間2交代制としました。

その効果が大きく表れました。

工員たちは働くことに喜びを見出し、
能率が驚くほど上がりました。

これは20世紀初期の出来事ですが、
自ら労働者の賃金アップを心がけたフォードの発想は、
国境を越えて、その後の労働者の待遇改善のモデルとなりました。

企業利益が膨らんでも、従業員へ還元しようとも思わない
今日の経営者とは大きな違いですね。

人生のゴール

アンドリュー・カーネギーは
13歳のときにスコットランドから
家族と共にアメリカにやってきました。

負けず嫌いのカーネギーは、
電報配達や、電気工場で少年工として働き、
次第に実業家として身を立て
ついには世界最大の
「カーネギー製鋼会社」を作り上げ、
鉄鋼王といわれるまでになりました。

しかしこれがカーネギーの
人生のゴールではありませんでした。

彼はさらに社会事業に出資し、
カーネギーホール、研究所、図書館、
学校などを設立しました。

人生のレースの途中で休むことなく、
最後まで社会のために尽したのです。

2007年06月17日(Sun)▲ページの先頭へ
人生の達人

シェイクスピアが22、23歳ごろ、
妻子をイングランドの田舎に残し、
ロンドンに出てきました。

子供の頃父親が事業に失敗したため学校を辞め、
家のために働き続けたシェイクスピアには
学歴も資格もありませんでした。

それで、まともな仕事にはありつけず、
ある劇団の馬番になりました。

舞台で役者が芝居を演じているのを見て、
おれも役者になろうと決意し、
演技の指導を受けて舞台に立ったものの
あまりぱっとしません。

それで今度は劇作家に方向転換。

こんどはめきめきと才能を発揮し、
26歳ごろには新進劇作家として
知られるようになりました。

しかし、子供の頃から苦労をしてきたので
考え方も、生活態度も堅実でした。

名声におぼれ、贅沢な生活を送り、
しかし悲惨な晩年を迎えている作家たちの
話を聞いたり見たりしてるシェイクスピアは
綿密な生活設計に取り組み始めていました。

故郷に自分の土地を持ち、家を建て、
劇場の株を買い、着々と引退後の準備を
固めていました。

そして、47歳頃に思い切りよく劇作家を辞め
故郷に帰って安らかで豊かな生活を送りました。

舞台では、悲惨な人間の悲喜劇を描く傍ら、
自分自身はしっかりと人生設計を
実現に向けて準備していたのです。

まさにシェイクスピアは、
人生の達人と言えましょう。

劣等感を克服する

ニュートンの少年時代は
物を作ることが好きだったので
それに熱中するあまり、
学校の勉強は怠けていました。

それで成績が悪かったので、
クラスでは劣等性として
みんなから馬鹿にされていました。

ある日ニュートンは木辺を使い
本物そっくりの水車を作りました。

近所の人達が感心するので
学校へ持って行って、みんなに見せると
クラスメートたちは感心し
ニュートンの器用さを
口々に褒め称えました。

ところが、クラスの主席の少年だけが
こういったのです。

「ふん、確かに良くできているね。
 本物そっくりだ。
 ところで、この水車が動くのは
 どういう理論によるのか
 説明してくれないかね?」

「・・・・・」

日頃の不勉強がたたって、
ニュートンは説明できませんでした。

秀才少年は鼻でせせら笑って言いました。

「おい、理論的に説明できなきゃ
 学校で勉強している意味が無いな。」

怒りのあまり、ニュートンは
天才少年の腰を嫌というほど
蹴飛ばしました。

そうすると、いままで感心していた
周りの少年たちも、
ニュートンのことをバカだと
ののしり始めたのです。

この屈辱にニュートンは悔し泣きに泣き、
机の上にうつぶしてしまいました。

しかし、その翌日からニュートンは
生まれ変わったかのように
勉強に打ち込むようになりました。

そしてまもなく、あの自分を馬鹿にした
秀才少年を追い越して
クラスの主席を占めるようになりました。

「あのとき馬鹿にされなかったら、
 私は学問の道を歩むことは無かったろう。」

晩年、ニュートンはこのように述懐したそうです。

2007年06月16日(Sat)▲ページの先頭へ
心を鍛え人間を鍛える

加納治五郎が柔術を学ぶ決意をしたのは
東京外国語学校(東京外国語大学)の
学生の頃でした。

治五郎は小柄で、
体はあまり丈夫ではありませんでした。

柔術で体を鍛え、大きな人にも負けない
力と体を作りたい。

学問では自信があったので、
体のほうでも自信を持ちたかったのです。

1877年、治五郎は東京日本橋の柔術家
福田八之助宅を訪れ、それ以来、毎日
稽古に通いました。

稽古は厳しいものでした。

手足の傷が絶えることが無く、
古い傷が治る前に新しい傷が出来る
というありさまでした。

手足のどこかに、いつも万金膏(まんきんこう)
というこうやくを貼り付けていたので、
いつの間にか学友たちから、
「万金膏の治五郎」という
ニックネームがつけられてしまいました。

こうして治五郎は柔術を習得すると、
創意工夫を加えて、
新しく柔道を完成させました。

東京外国語学校を卒業してから
東京帝国大学に進み、卒業後、
学習院の教官になりました。
22歳の時でした。

それから下宿していた下谷の永昌寺で
「講道館」という塾を始めました。

そこで治五郎は、英語、漢文、
さらに柔道を教え始めました。

治五郎は門人たちに語っています。
「柔道を学ぶのは、技をおぼえ、
体を鍛えるだけでなく、
心を鍛え、人間を鍛える"道"を学ぶためです。」

2007年06月14日(Thu)▲ページの先頭へ
時は金なり

Time is money(時は金なり)とは
フランクリンが言った言葉ですが、
それを説明するこのようなエピソードがあります。

フランクリンは若い頃、
印刷所と書店を兼ねた店を経営していました。

ある日、身なりの立派な紳士が店にやって来、
書棚を見渡してから、一冊の本を手にし、
店員に聞きました。

「この本はいくらだね?」

「はい、2ドルです。」

「少しまけてくれないか。」

「この店では値引きはしていません。」
店員は、はっきりと断りました。

すると客が尋ねました。
「フランクリンさんはいらっしゃいますか?」

「印刷所のほうに居りますが、
 とても忙しくしておられますので、
 お会いできる時間は無いと思います。」

「いや、少しの時間でいい。」

しかたなく店員が取り次ぐと、
やがてフランクリンが顔を出しました。

「この本は2ドル以下になりませんか?」

「それでは2ドル50セントでお売りしましょう。」

客は機嫌を悪くしました。
「店員は2ドルと言いましたが・・・」

「確かに定価は2ドルです。
 しかし、私にとっては、
 いま2ドル50セントで売るより、
 先ほど2ドルで売っていた方が
 儲かっていたのです。」

客はその意味がわかりませんでした。
「ふざけないでもらいたい。
 いくらになら値引きしてもらえるんだ。」

「では3ドルにいたしましょう。」

「どういうわけで、同じ本に
 3種類の値段がつくのかね?」

「それは、時はすべて金だからです。
 失礼なことを申し上げますが、
 私はあなたの無知によって、
 お金以上に貴重な時間を無駄にしたのです。」

客はようやくフランクリンの意味がわかり、
3ドル支払いました。

フランクリンはその中から1ドル返し、
「おわかりいただけたのなら、
 今日は定価どおり2ドルでかまいません。」

晩年フランクリンが科学者として、政治家として、
著述家として、多彩な活躍をし、
アメリカ建国の祖父の一人として、
たたえられるようになったのは、
このように時間を大切にして、
諸事に励んだからです。

2007年06月13日(Wed)▲ページの先頭へ
無欲

勝海舟、高橋泥舟とともに、
幕府の三舟といわれた山岡鉄舟は
剣術の名人であっただけでなく、
書道にもすぐれていました。

それで書を頼まれると、
だれかれの区別無く
快く承諾して筆を振るうのでした。

そのため、一生の間に書いた書幅は
20万にも達すると言われています。

書を依頼した人が謝礼をすると、
鉄舟は礼を言って快く受け取り、
紙包みのまま箱の中に入れておき、
お金に困った人が鉄舟を訪ねて来ると、
事情を聞いて、包み紙の中から
お金を出して与えるのでした。

ある人が鉄舟の無欲さを見て
「先生は書をなさったお礼を
 全部人におやりになるのですか」
と尋ねると、鉄舟は
「私は字を書いてお金を稼ごうという
 気持ちはまったく無い。
 お金に困って私を訪ねてくる者に与えたい
 と思うのでもらっているのです。」
と答えました。

鉄舟の家の経済状態は、いつも困窮していました。

それにもかかわらず、
お金の無心に来る人の面倒を見ずにいられない。

そういった人柄であったからこそ、
多くの人達から慕われたのでしょう。

2007年06月11日(Mon)▲ページの先頭へ
気配り

「晩鐘」「落穂拾い」で有名なフランスの画家、
ミレーがまだ無名だったころ、
ストーブで燃やす薪も無く、
妻子と共に飢えと寒さで震えていました。

ある日、親友の・ジャン・ジャック・ルソーが
尋ねてきました。

ルソーは、「エミール」「告白録」で知られる
哲学者です。

ルソーは、画室にかけてある一枚の絵を見て言いました。

「これは素晴らしい傑作だね。」

「実は、知人から、君の絵が欲しいと頼まれているんだ。」

「絵の選択は、私に任されている。」

「よかったら、この絵を譲ってくれないだろうか?」

「いいとも、よかったら持っていってくれ。」

ミレーが承知すると、
ルソーは懐から封筒を取り出し、言いました。

「この代金は知人から預かってきたものだけど、
 いくら入っているかわからない。」

「でも僕に免じて、
 ここに入っているだけにしてもらえるだろうか。」

ミレーもまた快く返事しました。
「いいとも。」

さて、ルソーが帰ってから封筒を開けてみて
ミレーはびっくりしました。
当時のお金で500フランも入っていたのです。

ミレー一家は、久しぶりに喜びにあふれました。

それから数年過ぎて、ミレーがルソーの家を訪ねると
あの絵が居間の壁に掛かっているではありませんか。

その瞬間ミレーは、ルソーの友情の深さを知ったのです。

ルソーは友の貧苦を見かねていましたが、
そうはいっても心苦しい思いはさせたくない。

それで架空の人物に託して、絵を買い取ったのです。

ミレーはルソーの手を取って、
「ありがとう」と、一言言いました。

2007年06月04日(Mon)▲ページの先頭へ
10セントのミスを正す

ロックフェラーといえば、
世界に名だたる大財閥ですが、
その創始者のジョン・ロックフェラーは
アメリカで1店員から身を起こし、
スタンダード石油を設立し、
巨万の富を築いた人です。

彼は成功を遂げた後も、
昔の苦労を忘れないように、
昼食は安い食堂で済ませていました。

そのメニューはいつも
ローストビーフとポテトでした。

食事を済ませと35セントの代金と
15セントのチップをボーイに渡し
出てゆくのでした。

ところがある日、
ボーイが差し出した勘定書きに
45セントと書かれていたので、
さっそくボーイを呼び
10セントの誤りを指摘し、
そしてその日のボーイへのチップを
5セントに減らしました。

するとボーイは嫌な顔をして、
「もしわたしが、あなたほどの大金持ちでしたら、
 わずか10セントを出し惜しみするような
 ことはしませんね。」

ロックフェラーは静かに立ち上がり言いました。

「もし君に10セントを大切にする心があったなら、
 このような間違いをするようなことはなかっただろうね。」

「そして、そのような心がけがあったなら、
 君はその年で今もボーイなどしていなかっただろうし、
 実業家として名を残し、
 私が注目する人物になっていたと思うよ。」

そういい残すと店を出て行きました。

ボーイは返す言葉もないまま、
呆然とその後姿を見送っていました。

ロックフェラーの真意が、
けちではなく、
金銭の大切さを教えることにあったことに
気が付かされたのでした。

2007年06月03日(Sun)▲ページの先頭へ
禁酒の誓い

1876年、クラークは日本政府の招きで
札幌農学校の教頭となりました。

現在の北海道大学農学部の前身です。

そのころの学生たちは、
酒を飲んで暴れまわることが多かったようです。

クラーク自身もお酒が好きで、
来日するときに、在任期間の一年分の酒を
持ってきていました。

ある日、クラークはそのお酒を全部教室に運ばせ、
「私も好きな酒を止めることを誓うから、
 君たちも誓ってくれないか。」
と言って、ハンマーで酒ビンをすべて
叩き割ってしまいました。

学生たちは感動し、
「もう飲みません」とクラークに誓いました。

クラークが帰国するとき、
学生たちに語った言葉
「少年よ大志をいだけ」は有名ですね。

クラークに深い感化を受けた教え子に、
内村鑑三、新渡戸稲造、新島譲などがいます。

1から100まで足すと

「数学の天才」といわれるガウスが
小学校3年生のときのお話です。

先生が黒板に1から100までの数字を
全部書いて、子供たちに言いました。

さーこれを全部足してごらん。
1時間はかかるだろうけど、
がんばるんだよ。

子供たちはさっそく足し算を始めました。

ところが数分後に、
ガウスが手を挙げて言いました。
「先生終わりました。」

先生はびっくりしました。

「そんな馬鹿な、そんなに速くできるわけがない。」

ガウスの石版を見ると、計算した後が無い。
ところが、答えはちゃんと合っています。

「ガウス君、君は初めから答えを知っていたのかね?」

「いえ違います。」

数字を全部見渡したとき、
最初と最後の数字を足すと101、
これが50組あるので、
101x50で5050になることに気が付いたのです。

こうしてまったく新しい方法を
ガウスが発見したのでした。

固定観念に捕らわれない。

頭を常にやわらかくしておく。

発想の転換は必要ですね。

2007年06月02日(Sat)▲ページの先頭へ
アンドリュー・カーネギー

かって日本の会社は、
社員を大事にしたものです。

社員のための福祉制度は
実に充実したものでした。

それは3本の柱によって成っていました。

1.社内預金制度

社員に預金してもらい、
それに対して利子を払うものですが、
銀行へ預けるより利子が高いので、
社員は努めて節約し、
貯金に励んだものです。

2.住宅用資金貸出制度

これは社員が住宅を持つための
資金の貸付を行うものです。

3.老後保障年金制度

長い間、会社のために働いてくれた
社員のために年金を払う制度です。

この三つは、社員を家族として養う
日本的雇用制度として
注目を集めていた時期もあります。

経済大国となった日本の雇用制度を解き明かす書として
カリフォルニア大学のエズラ・ボーゲル教授が
1970年代の後半に、
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を
世に送り出しました。

日本のすぐれた雇用制度を学ぶため、
この本はアメリカの大学の授業でも使われました。

日本でも翻訳されたものがベストセラーになったので
読んだ方もたくさん居られることでしょう。

でも実を言うと、
この社員を大切にする3つの制度は
日本独自のものではなく、
100年以上も前にアメリカで、
アンドリュー・カーネギーが
自分の会社で行っていたものなのです。

社員は会社が自分たちを大切にしてくれるので
ますます一生懸命働き、
会社はどんどん発展して行きました。

その結果、アンドリュー・カーネギーは
大きな財を築きましたが、
のほとんどを社会貢献のために寄付しました。

有名なカーネギーホール、
カーネギー・メロン大学、
また世界中の大学に図書館を建設するための、
資金を提供しました。
その数3000以上といわれています。

2007年06月01日(Fri)▲ページの先頭へ
伊能忠敬

日本全国を測量して歩き、
初めて正確な地図を作ったのは
幕末の伊能忠敬です。

伊能忠敬は、現在の千葉県に生まれ、
十歳で伊能家の養子になりました。

伊能家は元来富豪の家でしたが、
次第に家運が傾き、
忠敬が家を継いだときには
どん底の状態でした。

それで忠孝は身を粉にして働いたので、
50歳になったとき、
再び富豪の家となりました。

伊能家再興が成ったとき、
忠敬は幼い時からの夢であった
天文学や測量学の研鑽を
やってみたいと思うようになりました。

しかし、すでに50歳・・・

でも今やらなければ、生涯悔いを残すことになるだろう。

意を決して江戸に出て、測量学の勉学に励みました。

一通りの学問を修めた後、北海道に出向き、
測量を終えたのが56歳のときでした。

それから本州、四国と巡り歩き、
17年間費やして、日本全国の測量を完成しました。

忠敬の測量技術は、
現代のそれと比較しても遜色なく、
その正確さは見事なものです。

50歳になっても決して遅くはない。

彼はそれを身をもって示したのでした。

2007年05月31日(Thu)▲ページの先頭へ
ギャラップ世論調査

選挙の開票速報で毎回驚かされることがあります。

わずか数パーセントしか開票されていないのに、
すでに当選確実が次々と発表されることです。

これは統計の確率計算を応用したものです。

この先駆者はジョージ・ギャラップ氏です。

アメリカのギャラップ世論調査の名を
聞いたことがありますか?

1936年に行われた大統領選挙で、
多くのマスコミの意見では
アルフ・ランドンがルーズ・ベルトを抑えて
当選するだろうと見ていました。

しかし、ギャラップは独自のサンプリング調査から、
ルーズベルトの楽勝に確信を持っていました。

周りの人々はギャラップの予想に対して
笑っていました。

投票が終わり開票して集計した結果、
なんと、ルーズベルトの57%の支持率に対し、
アルフ・ランドンはわずか37%でした。

まさにルーズベルトの圧勝で終わったのです。

これ以来、ギャラップは注目を集めるようになり、
ギャラップ世論調査の世界における地位が確立されのです。

今日では世論調査が、
どんな商品が売れるだろうか、
どんな宣伝広告が効果があるだろうかなど、
広く応用されていますね。

2007年05月24日(Thu)▲ページの先頭へ
ナポレオン・ポナパルト

1769年8月15日、ナポレオン・ポナパルトは、
コルシカ島に生まれました。

コルシカ島はジェノバ共和国に属していましたが、
フランスに売り飛ばされてしまったので、
ナポレオン・ポナパルトは
フランスの国籍を有することになりました。

そして10歳のとき、奨学金を得て
フランス本国の学校に入ることとなりました。

14歳になると、パリの士官学校に進学し、
軍人を目指しました。

彼はここに在籍していたのはわずか11ヶ月間だけで、
卒業試験を受けてさっさと卒業してしまいました。

席次は58人中42番目だったものの、
士官学校の在籍機関は通常3−4年だったので、
彼は相当優秀な学生だったに違いありません。

ポナパルト少尉の専門は砲兵でした。

大砲を用いてさまざまな戦闘で活躍し、
めきめきと頭角をあらわし、
ついにはフランス皇帝になってしまうのです。

彼が率いた軍隊は、
南はエジプト、北はロシアまで侵攻しました。

ロシアの首都モスクワまで占領したものの、
厳しい寒さに耐え切れず、
まもなくフランス軍は
ロシアから撤退せざるを得ませんでした。

映画「戦争と平和」に、
ナポレオン率いるフランス軍が
モスクワを占領する場面が出てきます。

晩年のナポレオンはフランス本国から見放されたので、
イギリスに住むことを希望しましたが、
イギリスからの回答は厳しく、
セント・ヘレナ島に流刑されてしまいます。

6年間南太平洋の孤島で過ごしましたが、
健康を害して51歳でこの世を去りました。

死因は胃潰瘍もしくは癌(がん)だったようです。

彼の死後20年過ぎた1840年になってから、
彼の遺体をフランス本国に戻す運動が起こり、
ようやく本国に帰ることができることとなりました。

かっての忠臣たちがセント・ヘレナ島に向かい、
彼の遺体がフランスに帰ることになりました。

ナポレオン一世の無言の帰国を
10万人の人々が迎えたのでした。
1840年11月30日のことです。

2007年05月23日(Wed)▲ページの先頭へ
アメージング・グレース

この曲は、3年前にテレビドラマ「白い巨塔」の
テーマミュージックに使われましたね。

この曲を作ったのはジョン・ニュートンというイギリスの方です。

ジョンは1725年にイギリスで生まれました。

母親は熱心なクリスチャンでしたが、
ジョンが7歳のときに亡くなってしまいました。

成長したジョンは、
商船の指揮官であった父親と共に
船乗りになりました。

そのうちジョンは「奴隷貿易」に手を染めるようになりました。

18世紀の当時、アフリカから沢山の黒人を船に乗せ、
アメリカ大陸に奴隷として売る「奴隷貿易」が盛んだったのです。

船に積み込まれた奴隷たちの扱いはひどいもので、家畜以下でした。

衛生環境が悪く、彼らの多くが伝染病、脱水症、
栄養失調で亡くなりました。

ジョンも平気で奴隷たちを過酷に扱っていました。

22歳になったジョンは奴隷船の船長の役をおおせつかりました。

ある日、航海中大嵐に遭遇し、
ジョンが乗った船が沈没しそうになりました。

そのとき、ジョンは初めて神に祈ったのです。
そしてその大嵐から、ジョンは奇跡的に助かったのでした。

ジョンは初めて神に感謝しました。
それから16年間、ジョンは奴隷の商売を続けましたが、
船内での奴隷の扱いは格段に改善されました。

1755年、ジョンは病気を理由に船を降り、
それから勉学に励むようになりました。

やがてジョンは神父になり、数多くの賛美歌を作りました。

そして1765年「アメージング・グレース」が生まれました。

「アメージング・グレース」は、
かって奴隷商人としてひどい生き方をしていた自分にさえも、
神は愛を注いでくださったことを感謝する内容の歌です。

この曲は、アメリカ南部の綿花を栽培するプランテーションで
奴隷としてつらい扱いを受けていた黒人たちを励ます歌として愛され、
今日も尚、黒人の教会で広く愛され、歌い続けられています。

ジョンが死ぬ間際にこのような言葉を残しています。

私は自分の生涯を通して、
二つのことがはっきりとわかりました。

そのひとつは、かって私は救いようの無いほど、
ひどい罪人(つみびと)であったということです。

そしてふたつめは、そんな私にさえも、
神様はあふれるほどの愛を注いで下さったのです。

こう言い終えると、ジョンは静かに息を引き取りました。

2007年05月19日(Sat)▲ページの先頭へ
アルバート・シュバイツアー

アルバート・シュバイツアー

シュバイツアーは1875年に
「アルザス」(現在のフランス)で生まれました。

大学で宗教哲学を学び、哲学博士になりました。

それから神学を学び、
イエスやパウロに関する研究で、
優れた論文を発表しています。

彼は宣教師としてアフリカに行くことを望んでいましたが、
神学的立場、主張が宣教団体に受け入れられず、
宣教師としてアフリカに行く道は開かれませんでした。

なんとしてでもアフリカに行きたい。
固い決意を持っていたシュバイツアーは医師として
アフリカに行くことを思いつきました。

すでに哲学者・神学者として
優れた才能を認められていたにもかかわらず、
それから医学の勉強に取り組みました。
シュバイツアー30歳のときの決断でした。

それから8年かかって医師の免許を取り、
看護婦だった妻と共に念願のアフリカに渡ります。

当時フランス領だったアフリカの地で病院を建てますが、
病院維持のためには莫大な借金を抱えてしまいます。

この借金を何とかしなくてはいけない。
ヨーロッパに用事で出かけたとき、
このことを相談すると、
「あなたのピアノの演奏はすばらしいから、
教会で音楽会を開いてはどうでしょう」
とのアドバイスを受けました。

シュバーツアーは、哲学、神学。医学のみならず、
ピアノの演奏にも優れた才能を持っていたのです。

教会で開かれたピアノ演奏会は
会場が満員になるほどで、
おかげでそれで集まったお金で
病院経営で抱えていた借金を返すことができました。

保守的な神学的な立場に立つキリスト教会によっては
シュバイツアーの神学的な立場に対して批判的な声もあるようです。

しかし、シュバーツアーほど自分の生涯を通して、
異郷の地で多くの人々のために尽くした人は他には居ません。

理屈ではなく、隣人愛を行動で示した真の愛の人でした。

シュバイツアーは、1952年にノーベル平和賞を受けています。

2007年05月07日(Mon)▲ページの先頭へ
アルバート・アインシュタイン

1921年、相対性原理の発表により、
彼はノーベル物理学賞を受けました。

これにより世界で最も有名な科学者となりました。

相対性原理がいったいどんなものか、その内容を知らなくても、
彼の名前を知らない人は世界中探してもまず居ないでしょう。

彼は相当優秀だったに違いありません。
しかし、子供の頃はそうでもなかったようです。

彼は南ドイツのある田舎町で生まれました。

子供の頃はのろまで内気で、
発育の遅れた子供で、
言葉を覚えるのにも苦労したほどでした。

あまりにも頭が悪いので、
先生達からは困った奴だと見放され、
両親までも、この子は普通以下かもしれないと心配したのです。

アインシュタインは名声だの財産だの、
誰もが欲しがるものに興味を示しませんでした。

こんなエピソードがあります。

大西洋を船で横断した時、
船長がどうか特別室をお使いくださいと申し出ました。

それは値段が一番高い船室でした。

ところが彼は、
「特別扱いされるより三等で行くほうがいい」と言って
即座に断ったのです。

こんな面白い話もあります。

アインシュタインが
ベルリンで電車に乗ったときのことです。

受け取った釣銭がおかしいと言って車掌に文句をつけました。
車掌が釣銭を勘定しなおしてみると、
釣銭は間違っていませんでした。

車掌は釣銭を渡しながら言いました。
「数の勘定の出来ない人には困ります。」


天才と言われる人は、
普通の人とはやっぱりどこか違うんでしょうね。

ナチスドイツに迫害されて、
アインシュタインはアメリカに逃れ、
1940年にアメリカに帰化しました。

彼は個人の自由を尊重する平和主義者で、
後には核兵器にも反対しました。

2007年05月04日(Fri)▲ページの先頭へ
それでも地球は動く

ガリレオ・ガリレーは1564年に
イタリア北部のピサで誕生しました。

彼は教会の吊り灯が揺れているのを見て、
振り子の等時性を発見し、
さらに、ピサの斜塔を使って、
質量の異なるものを同時に落下しても
地上に着地する時間は同じという
落体の法則を実験したことで知られています。

ある日彼は10倍の望遠鏡を手に入れ、
それを20倍の望遠鏡に改造しました。
これがガリレオ式望遠鏡です。

ガリレオ式望遠鏡とは、対物レンズに凸レンズを用い、
接眼レンズに凹レンズを用いた屈折式望遠鏡です。

彼はこれを用いて、木星の衛星や太陽の黒点を発見しました。

ガリレオは、自分が改良した望遠鏡を用いて
宇宙を観測しているうちに
コペルニクスが主張していた「地動説」が
正しいと信じるようになりました。

ところが当時のローマ法王庁は天動説を支持していたので、
ガリレオは宗教裁判に掛けられることになってしまいました。

宗教裁判は異端を弾圧する目的で盛んに行われていたもので、
密告や拷問が普通に行われ、
また判決として、破門、市民権の剥奪、
さらに火あぶりの刑と過酷なものでした。

裁判に掛けられたガリレオは有罪判決を受けました。

判決内容は無期刑でしたが、
やがて自宅軟禁に減刑されました。

判決が出ると同時に、全ての役職を剥奪され、
一生監視つきの生活を余儀なくされました。

外出は散歩する意外は許可されませんでした。

裁判でガリレオが「それでも地球は動く」
とつぶやいた話は有名ですが、
実際につぶやいたかどうかは、
はっきりわかっていないそうです。

ガリレオを擁護する者の、
後代の創作という説が有力となっています。


地動説が観測によって証明されたのは、
ガリレオが世を去ってから80年後の1727年の光行差の発見や、
さらに100年後の1838年の年周視差の発見によってでした。

2007年05月03日(Thu)▲ページの先頭へ
ユリイカ(わかったぞ!)

ギリシャの王様が純金の王冠を作りました。
ところが、その王冠には混ぜ物があるとのうわさが立ちました。

王様はこのうわさが気になってしょうがありません。
そこでアルキメデスに相談しました。
「この王冠が純金なのかどうか調べてほしい。」

アルキメデスは王冠の重さを量ってみましたが、
職人に渡した金の重さと同じでした。

混ぜ物があるかどうかどのようにして調べればよいのだろう・・・
アルキメデスは、丸一日考えましたが、わかりませんでした。

そして夕方になって、裸になってザブンと浴槽に入ったところ、
一杯入っていたお湯があふれ出しました。

「ユリイカ(わかったぞ)!」
喜びのあまり、アルキメデスは裸のまま街に飛び出して行きました。

それから、アルキメデスは、
王冠と同じ重さの純金を水に沈め、
あふれ出た水の量を測りました。

つぎに、同じ重さの銀を水に沈め、
またあふれ出た水の量を測りました。

そして比較してみたところ、同じ重さでも、
金と銀とではあふれる水の量が違うことを発見しました。

今度は同じ重さの純金と王冠を水に沈めたところ、
ここにもあふれ出す水の量に違いがあることがわかり、
それによって、王冠に混ぜ物があることがわかりました。

めでたし、めでたし。

アルキメデスが発見したのは「浮力の原理」ですが、
「テコの原理」と共に、
「アルキメデスの原理」として知られています。

また、円周率のπを正確に決定したのも、アルキメデスです。

彼は優れた発明家でもあり、プラネタリウム、ポンプ、滑車、
太陽光線を集めて火をおこす凹面鏡も、彼の作品です。

紀元前212年にローマ軍はギリシャに攻め込みました。
そのときアルキメデスは砂に幾何学図形を描いて
研究に夢中になっていました。

アルキメデスであることを知らないローマ兵士は
彼を殺してしまいましたが、
これを知ったローマ軍のマルケリウスは、
この著名な人物の死を悼み、
名誉ある葬儀を行い、遺族と和解しました。


アメリカには「ユリイカ」の名前がついた地名が
20箇所以上もあるそうです。

また、カリフォルニア州のモットーが
「ユリイカ」になっています。

2007年04月23日(Mon)▲ページの先頭へ
虹は希望の象徴

ユダヤ人の歴史は迫害の歴史です。

紀元70年ごろにローマ軍がエルサレムに侵攻し、
その町をめちゃくちゃに破壊しました。

それ以来ユダヤ人は世界をさすらう民族となり、
自分の国を持つことが出来ませんでした。

最もひどいのは、
第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人大虐殺。
これにより数百万人のユダヤ人の命が奪われました。

しかし、ユダヤ人はどんなに迫害されようとも、
決してあきらめませんでした。

それに比べて、日本人の意志は実に貧弱です。

サラ金に手を出して、
金が返せなくなったと言っては他人に泣き付き、
受験に失敗したからといって自ら若い命を絶ち、
左遷されたからといって自分の将来に対してあきらめる。

しかし、ユダヤ人にとっては、
この程度のことなど逆境とは思っていません。

ユダヤ人が今日まで生き残ってきたのは
決してあきらめなかったからです。

嵐のあとに美しい虹が出ますが、
ユダヤ人たちは、虹を見る度に、
希望を新たにして歩み続けたのです。

2007年04月20日(Fri)▲ページの先頭へ
あきれた日本の社会保険制度

社会保険事務所から、
国民年金の納付についてのはがきが送られてきた。

内容を読んであきれてしまった。

口座振替を利用して納入すると
月額14100円にたいして、
50円安くなるといううたい文句。

年額165650円も収めるのに
一年でわずか600円しか安くならない。

600円で何が買える?

たかが年額600円、これが納める側にとって
大きなメリットになると考えているのだろうか。

それから25年間納入しても、
年金をもらえるのは65歳になってからだ。

その金額は月額でわずか41258円だ。

一ヶ月4万円で生活ができる世の中かどうか
考えてみればわかるだろう。

美しい日本を作ろう、
住みやすい日本を作ろうなどと
きれいごとを言っている政治家のトップは
いったいこれをどのように考えているのか。

2007年04月14日(Sat)▲ページの先頭へ
反対意見の存在を認める

ユダヤ人たちが大切にしているタルムードは、
何千年にも渡ってラビたちが論争してきたものをまとめた、
いわゆる知恵の百科事典です。

そこには、賛成する意見だけでなく、
反対する意見の存在も貴重であると書かれています。

もしひとつの考え方の集まりだったら、
世界はおかしな方向に進んでゆくことは
歴史が明らかに示しています。

世界中が戦争に巻き込まれるとき、
そこにはひとつの意見が強引に押し通された
結果であることがわかります。

かって、明治政府が出来上がったばかりの頃、
新政権の権力中枢を握った薩摩・長州の指導者たちは、
自分たちの意見に反対する者たちを
力で抑え込もうとしました。

これに反対し、自由民権運動を起こしたのが
土佐藩に属する者たちでした。


自分の力を過信し、権力を振り回すと、
そのつけはいずれ自分のところに戻って来ます。

地位ある者達よ、
おごり高ぶってはいけません。

ユダヤの人々はこれを子供の頃から
しっかりと教えられています。

2006年12月30日(Sat)▲ページの先頭へ
年賀状

最近の年賀状は、
パソコンで印刷したものが主流であり、
写真も入れることができるし、
宛名もきれいに印刷できる。

でも受け取る側としては、
何か物足りなさを感じる。

昔は、一枚一枚手書きだった。

そして、本人の直筆の癖のある文字から
感情が伝わって来たものであった。

小学校の頃は芋版を押した。

中学校になると、
ゴム版画または木版画だった。

謄写版(ガリ版)を小型化した
プリントごっこが普及した時も
まだ個人の特徴のある文字が
そこにはあった。

しかしパソコンが主流になってしまった今日では
文字から本人の感情が伝わらなくなってしまった。

誰が書いても同じ文字、
大人が書いても、子供が書いても同じ文字。

干支の動物があり、
決まり切った「あけましておめでとう」の
言葉が印刷されているだけだ。

年賀状の意味が、
出したか、出さなかったか、
ただそれだけになってしまった。

それで、今年は年賀状を出すことは止めた。
その代わり、E-メールを使って出すことにした。

すでにクリスマスカードはこれで出した。
世界中の友だちに一瞬にして届けることができる。
地球の裏側から、返事がすぐに来た。

選べるデザインはけっこう揃っているし
簡単な近況報告も書くことができる。

年賀状を印刷するのに
時間もかかるしお金もかかる。
はがき代にプリンターのインク代。

年賀状のデザインをし、住所録を作り、
そして印刷する間じっと張り付いていなければいけない。

それに比べれば、Eメールでカードを送るのは簡単!

山のように受け取ってもゴミにならないし、
さて、明日出してもちゃんと元旦には届くし、
便利、便利!

2006年07月27日(Thu)▲ページの先頭へ
人は目に見えるものに影響される。

人は目に見えるものに影響される。

新聞を広げると暗いニュースばかり、
テレビのスイッチを入れると、
芸能人が集まってのくだらないクイズ番組ばかり。

テレビドラマでは、相手を大声で怒鳴りあい、
殴ったり蹴ったり。

新聞に載っている映画の広告では、
みんな険しい顔つきばかり。

こんなものばかり見ていると、
中味の無い、薄っぺらな人間になってしまうよ。


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2006年04月19日(Wed)▲ページの先頭へ
リーバイズ:ジーンズと聖書

ジーンズといえばアメリカのリーバイズが有名であり、
日本でリーバイズのジーンズを買うと、
6千円とか1万円とかとても高い値段がついている。


リーバイズはヘブライ語読みにするとレビであり、
会社の創始者は、もしかしたらユダヤ人なのかもしれない。


旧約聖書をみるとレビ族が出てくる。
当時のイスラエル民族は12部族から成っていて、
レビ族はモーセのお兄さんのアーロンをその部族の頂点として、
代々祭祀職を受け継ぐこととなった。


旧約聖書のなかの最初の五つの書物は、
創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記であり、
これらの書物は紀元前1500年ないし2500年ごろに
モーセによって書かれたといわれている。


レビ記には主に神殿での儀式についての規定が書かれている。


 参考図書
  ↓↓↓
「「聖書のすべて」著者:中見 利男、ひろ さちや」

2006年04月17日(Mon)▲ページの先頭へ
ジーンズの歴史

ジーンズはいまや、おしゃれなファッションとして愛用されているが、
元々は作業着として発明された。

1849年にカリフォルニアに金鉱を求める人々が殺到し、
カリフォルニアにゴールドラッシュの時代がやってきた。

当時金鉱を掘る作業、カーボーイ、鉄道建設などに従事する人々が
求めていたものは、丈夫で破れ難い素材の作業服であった。

こういった需要があったので、丈夫で破れ難いデニム素材のジーンズは、
たちまち評判のうちに飛ぶように売れた。

2006年04月04日(Tue)▲ページの先頭へ
新入社員

新年度が四月から始まり、
職場に新入社員が配属され、
新鮮な雰囲気ですね。

夢を大きく持って歩んでいきましょう。

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